NHK教育番組「おかあさんといっしょ」の11代目うたのお兄さん・横山だいすけさんが歌った、ある一曲に批判と賞賛が集まっている。
タイトルは『あたしおかあさんだから』。
作詞は絵本作家ののぶみさんが担当したんだって。
まぁ、ざっくりと言えば、お母さんならではの我慢や葛藤が描かれていて、
ママ神話のような、もどかしさを感じた。
だけど、私はこの曲の賛否より、とある詩を知って欲しい!
ニュージーランドから「詠み人知らず」のまま、広く伝わった『今日』という詩だ。
『今日』 (伊藤比呂美 訳)
今日、わたしはお皿を洗わなかった
~中略~
きのうこぼした食べかすが
床の上からわたしを見ている~中略~
今日一日、わたしは
澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のために
すごく大切なことをしていたんだってそしてもし、そっちのほうがほんとなら、
わたしはちゃーんとやったわけだ今日
訳:伊藤比呂美 / 画:下田昌克出版社:福音館書店
私、お母さんだから?お母さんだけど?
子育ては楽しい。けれど、その中に大変さもある。
もしかしたら、『あたし、おかあさんだから』我慢する瞬間だってあるのかもしれない。
けれど、この『我慢』を『お母さんだから』という理由で認めたくない自分がいたり、
そもそも我慢というよりも、現実的に無理な状況に遭遇したり。
この現状に対して「あなたのために我慢しているのに…!」と爆発しそうになることだってあるし、
「夫ちゃんだけ、ずるいっっ」と、ムカムカキーっと、ヒステリックにハンカチの裾を噛んでいる!!(実際には噛んでいないけど、気持ち的に)
と、思えば次の瞬間には「はぁ、なんてかわいいんだ」と赤ちゃんの首をクンクン嗅いでいるんだ。
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たまに、『私』というアイデンティティがどんどん『お母さん』に苛まれていく。
「お母さんだから」と。
「お母さんだから」と納得する心。
「お母さんだけど」と家族間のバランスに疑問を抱き、
ときには「あれ?お母さんってなんだっけ」なんて。
365日・24時間・1分・1秒刻みでコロコロコロコロ気持ちが入れ替わるもんだから
『お母さん』に対する認知は個々であっても、定義しきれないのだ。
※ちなみに私は理想と願望と妄想と理性が入り混じり、定める気すらない
この認知の違いが生み出した不快感こそ、『あたしおかあさんだから』が批判を浴びる理由。
中野さんの記事で読んだけど、心理学では「認知的不協和」というらしい。
母の自己犠牲を描くとなぜ炎上するのか のぶみ作詞「あたしおかあさんだから」 を認知的不協和から考える
『おかあさんだから』を聴いて、ウッとしんどくなる人もいれば、気持ちを代弁してくれている!と感じる人もいる。
賛否両論が集まる理由は、中野さんが仰る「認知的不協和」なんだろう。
溜まった洗い物の冷たい視線を感じながら、思うこと
まぁ、そんなことより、私は「今日」の方が共感できる。
『成果』がなかなか目に見えないフリーランスという働き方をしている自分。
『正解』のない子育てをしている自分にとってもだ。
目に見えようが見えまいが、私は「目の前にある何かに一生懸命なんだ」と自分に言い聞かせ、「今日、私はお皿を洗わなかった」。
※本ブログは、出版社へ問い合わせたところ、一部引用OKとの許可をいただき抜粋しました。
福音館書店さま、ありがとうございます。