日本人は他国と比較して、自己肯定感が低いらしい。
のですが、実際に親となり、気が付いたことがある。
それは・・・
自己肯定感が低いというより『自己肯定感のあり方』を勘違いしているのでは……?
ということ。
自信満々で自己肯定感が高い人が、リーダーシップを持っているとは限らなくて。
時としてその『自信』が周囲にジューシーすぎる混乱を招く場面にも遭遇した。
逆に「どうしてこんなに素晴らしい才能があるのに!」とびっくりしてしまうほど、自己評価が低い人とも出会ったナ。
そんなこんなで、子育て真っ只中の私は、ほどよい自己肯定感を育てる方法をいつも考えている。
私自信、不健康な自己肯定感で苦しんだからこそ、ヘルシーかつ健全な自己肯定感をもってほしいと思うからだ。(まぁ、親のエゴなんですが……)
子どもの健全な自己肯定感を高めるために意識したいこと。
そもそも健全な自己肯定感の定義について考えてみよう。
この記事の目次
不健康な自己肯定感で苦しんだ10代の話
私が健全な自己肯定感を子どもに持ってほしいと思っている理由は、けっこうシンプル。
私自身が自己肯定感を履き違えていて、苦い経験をしたからだ。
自分でいうと鼻につくけれど、中学二年生までは比較的『なんでもできる自分』だった。
賢いとかそういう問題ではなく、たまたま器用な幼少期を過ごしていただけだと思う。
共働きで忙しかった両親はとても明るく、いつも私を褒めちぎってくれた。
両親が褒めてくれた経験は人生のお守りのようなもので、今の自分がいる『材料』にもなっている。
「なんでもできるね」とクラスメイトに言われると「それほどでも……」と答えていたが、心の中では「私は勉強も運動もできるし、明るくて元気な子」と思っていた。
実際に中学生までは勉強もできたし、運動もできた。
けれど、私の武器だった『自己肯定感』が自分自身を苦しめたのだ。
自分の自己肯定感に苦しめられるきっかけとなったのは、子どもによく見られる起立性調整障害の症状が出て、学校に通えない期間。
それに伴い、エベレストの頂上から雪崩れるように成績不振になったのだ。
心身ともに疲れていたこともあり、頑張っても頑張っても成果が出ない自分に嫌気が刺した。
なぜなら14年間「勉強も運動もできるし、明るくて元気な子」として歩んできたからだ。
クラスメイトからも「自信があるし、なんでも出来て凄いね」とよく言われていた。
だからこそ、何もできなくなったギャップが大きかったな……。
学校にいけないなりに、自分で勉強をして塾にも通っていたけれど。
それでも成績は今まで通りじゃない。そんなとき、担任の先生に言われた言葉がある。
「成果がすべてじゃない。成果を出そうとするまでの過程を、評価しなさい」
今までの『自信』は成果に対する『不健康な自己肯定感』であって、成果を出すまでの過程は一切重視していなかったから。
自分は成果を出せる自分のことしか認めていないことになる。
これこそ、私が抱いているモヤモヤの正体だった。
健全な自己肯定感の定義は自己分析力だと思う
勝手に名付けただけなんですが……私が思う不健康な自己肯定感は、「成果だけを評価する」というものだけではない。
アラサーになってよく出くわすのが、理想の自分と現実の自分のギャップを埋めるかのように、自信がありすぎて『なにもしない』人。
ストレートにいうと口先だけの人で、仕事でも、プライベートでもよく出くわす。
また、誰かといつも比較して自分の努力を認められない人や、
「私なんて」と挑戦することを諦めてしまう人もいる。
真逆な例だけど。
自己肯定感が高すぎても、自己肯定感が低すぎても、生きづらさを抱えると思う。
じゃあ、何が健全な自己肯定感なのだろうか?
私は、自己分析力が、健全な自己肯定感じゃないかと考えている。
「私はなんでもできる」みたいな雰囲気を漂わせていても、挑戦できない人は、もしかしたら表面ではわからないコンプレックスを抱えているのかもしれないし……。
コツコツ努力できるタイプなのに「私なんて」と思っている人は、過去に否定されまくった過去があるのかもしれないし。
結局は自己肯定感って、自分を認める行為でもあり、良くも悪くも今の自分を受け入れ「それでもやってみよう!」と思える気持ちなのかなと思う。
最高の自分だけを認めるのではなく、自分の弱点も踏まえて、前に進める力だ。
自分を認めるって言葉にアレルギー反応を抱いてしまうけど。
自己肯定感が高い人って、自信家というよりは、自己分析が上手な人というイメージがある。
自己肯定感の定義では、自分を認めるという表現が使われがち。
けれど、本当のところは、自分を認める=いいところも嫌なところも知るって意味だと思わない?
ちなみに『認める』の語源にはこう記されていた。
見て、知ること。「見て、また考えて確かにそうだと判断する」こと
「自分を認めよう」という言葉は、なんだかキラキラしている。
アレルギー反応のような嫌悪感を抱く人もいると思う。(私は抱くw)
実際には、「自分を認めて、自分を好きになろう(キラッ)」みたいなテンションではなく「自分を見つめて、自分の特性を知り、考えて判断できるようになろう」である。
こう考えてみると、自分を認める行為は、意外と倫理的な行為なのかもしれない。
子どもの自己肯定感を育てるための『認め方』
さて、ようやく本題です!!!!
子どものほどよく健全な自己肯定感を育てるためには、どうすればいいのか?
子どもの自己肯定感を高めるためには「褒めてあげましょう」と言われているけれど。
ただただ成果を褒めちぎりなさいというわけでもない。
もちろん、絵がかけたり、片付けができたりしたときに、「すごいね、頑張ったね、上手だね」という言葉かけ自体、悪くはない。
しかし成果だけを褒めるだけでは、成果なしでは認めてもらえないという勘違いが芽生えてしまうこともあるかもしれない。
「いい点をとらなきゃ褒めてもらえない」
「なんでもできる、いいこでいなくちゃ」
そんな優等生プレッシャーを植えつけてしまいかねない。
そこで意識したいのが、「できなかったけれど、頑張ったことを認める」こと。
子どもって上手くできなかったとき、すっっっっごい落ち込むんだよね。
私の娘も「もうできないよ〜」とよく泣いている。
成果が伴わなくても……
挑戦しようとしたこと。努力した過程を思いっきり褒めてあげたい。
「●●ちゃんは、なんでもできるよ!」と、勇気付けるのも大切だけど、失敗しても味方であることを認識してほしいと思っている。
ちょっと土臭くても、『できるかできないかわからないけれど、やってみよう』という気持ちを肯定してあげたいな。
自分の子どもが大人になったとき、そういう心持ちで過ごしてくれていたら嬉しいし……。
(かくいう私も偉そうにいえなくて、大人になればなるほど、自分で出来るだろうレベルのことにしか挑戦しようとしない悪い癖が目立っている)
- 成果(条件)ありきの褒めではなく、挑戦した過程を認める
- 失敗しても、成功しても、味方であることを認識してもらう
この2つを意識していれば、健全な自己肯定感を育てられるんじゃないかなと思っている。
まとめ|子どものファン一号になりたいなと思う
「勉強して大学に進学して、いい会社で働いてほしい……」
「自分が後悔したからこそ、子どもには後悔してほしくない」
親だからこそ、子どもに対していろんな期待や願いを抱いてしまう。
けれど子どもの好きや挑戦を応援できるファン一号みたいな親になれたらいいな。
親心、子知らずなんて言葉があるが、「英語が話せたらよかった」とか「もっと勉強しておけばよかった」という親の後悔からくる『子どもへの期待』は、人生をあゆみはじめたばかりの子どもには伝わらないわけで。
親心ゆえの「こうしてほしい」よりも、子どもが今興味のあることや、好きなことを認めていきたいなと思っている。
「キャラクター服なんて着させたくない」と思っていた私もお母さん4年目の今、どっぷりアンパンマン沼にハマっているわけだが、そういう応援の仕方もありだよね。おしまい。